甘い毒と柑橘の温もり ※R-15
神童さんを追いかける形で渡米してから一ヶ月。アメリカでの生活にも少しは慣れてきて、新しいチームメイト達とも徐々に打ち解けてきた。
僕の移籍理由はチームメイト達にも知れ渡っているらしく、「Is he your boyfriend?」なんて冷やかされることもある。神童さんはそれを否定も肯定もせず、「彼は僕の大切なパートナーだよ」と、曖昧に返してごまかしていた。
僕はというと、神童さんのようにうまくかわせるほど器用ではなく、苦笑いを浮かべることしかできない。そんなときも神童さんが横から会話に割り込んでフォローしてくれるのが常だった。
「ほら、進くんが困っているだろう。あまりしつこいと午後のフリーバッティングで内角の低いところを執拗に攻めてしまいそうだ」
神童さんが遠回しに凄むと、チームメイト達は諦めて肩を竦めて去っていく。この辺の線引きがしっかりしているのは彼らのいいところではあった。
神童さんは、僕がどんなに踏み込もうとしても、いつも静かな笑みを湛えてかわしてしまう。その柔らかくも絶対的な壁の向こう側に、僕はまだ一度も触れたことがないような気がしていた。
「何をぼんやりしているんだい、進くん」
ふいに耳元で落とされた声に肩が跳ねた。
球団施設に隣接されたカフェテラスのテラス席。目の前のテーブルには、冷めかけたエスプレッソと、僕の頼んだ柑橘系のハーブティーが置かれている。
神童さんは大きな体を浅くチェアーに預け、カップを持ち上げながら楽しそうに僕の顔を覗き込んでいた。
「すみません、少し考え事をしていて……」
「Is he your boyfriend、かい?」
その言葉に僕の肩がぴくりと跳ねるのを見た神童さんは、悪戯が成功した子供のようにくすりと喉を鳴らす。
「……否定してくださっても良かったんですよ。神童さんにご迷惑がかかりますし」
「僕は困っていないけどね」
「ですが……」
「それに」
神童さんは手にしていたカップをソーサーに戻すと、身を乗り出すようにして僕との距離を縮めた。
「否定してしまうと、それが嘘になってしまうかもしれないだろう?」
「え……?」
聞き返した声は、自分でも驚くほど小さく掠れていた。
神童さんの青い瞳が、僕の動揺をあますことなく映し出している。そこには冗談めかした色もなく、かといって過剰な熱を孕んでいるわけでもない。ただ静かに、深く、僕の奥底を見透かそうとする眼差しがあった。
「チームメイトの冷やかしを真に受ける必要はないけれど……僕が君をただの後輩としてだけ見ていると思われたら、それはそれで少し心外かな」
神童さんの手が伸ばされ、テーブルの上で固まっていた僕の指先にそっと触れる。
分厚く、ピッチャーとしての肉刺が硬くなったその大きな掌。兄さんの手よりも一回り大きく、包み込むような温もりが指先から伝わってくる。
僕が強張ったのを察したのか、神童さんは握る力を強めることもなく、ただ優しく僕の指をひと撫でして手を引いた。
「冷めてしまうよ」
神童さんは静かに微笑み、僕の前に置かれたハーブティーのカップを指差す。
「……あ、はい。いただきます」
促されるままカップを口に運ぶ。甘酸っぱい液体が喉を通っていくけれど、味わう余裕なんてとてもなかった。
神童さんはいつだって圧倒的な包容力で僕の不安ごと抱え込もうとしてくれる。けれど、ときおり怖くなってしまうのだ。
縛り付けるのではなく、僕が自らこの温もりに縋り付かずにはいられなくなるように――神童さんは静かに、丁寧に、逃げ道を塞いでいっているのではないかと。
「……神童さんは、意地悪です」
ぽつりと零れ落ちた僕の言葉に、神童さんは少し驚いたように眉を上げ、それから嬉しそうに目元を緩めた。
「そうかい? 自分では至極真面目に、君に対する好意を伝えているつもりなんだけどね」
「好意、だなんて……」
心臓が跳ね上がる。プロでの先輩と後輩、チームを支える投手と捕手。そういった安全なラベルを、彼はいとも易々と剥がし取ってしまう。
「ハーブティー、もう冷めてしまったね。新しいものを頼もうか」
「あ……いえ、大丈夫です。いただきます」
慌ててカップを手に取り、残りを飲み干した。甘酸っぱい柑橘の香りが鼻腔を抜けるけれど、舌の上に残ったのは熱っぽい痺れだけだった。
「進くん」
テーブルを挟んで、再び名前を呼ばれる。
「カフェを出たら、僕の部屋に来ないかい? 新しく届いた相手チームのスコアラーデータがあるんだ。明日のミーティング前に、二人で配球の組み立てをおさらいしておきたい」
「部屋、ですか……」
「もちろん、純粋な作戦会議だよ。……それとも、僕と二人きりになるのは不安かい?」
悪戯っぽく首を傾げる神童さんに、僕は首を振ることしかできなかった。「いいえ」と答える声が小さく震える。
仕事という正当な口実を与えられれば、断る理由なんて僕には存在しない。それどころか、彼のプライベートな空間に招かれることに、甘い毒を含んだ期待を抱いてしまっていた。
カフェを出て、神童さんの借りているマンションの一室へと移動する。並んで歩くと肩が触れ合いそうな距離感は、静かな緊張感を孕んでいた。
「喉は乾いていないかい? 水でも淹れよう」
部屋に入り、重厚なドアが閉まる音が響く。
「あ、僕がやります。神童さんは座っていてください」
「ふふ、相変わらず気遣い屋だね。でも、ここは僕の家だ。少しは僕に甘えてほしいな」
神童さんはジャケットをソファの背もたれにかけると、キッチンへ向かうのではなく、僕の目の前で足を止めた。
見上げるほどの長身。鍛え上げられた体躯が落とす影が、僕を完全に覆い隠す。
「神童、さん……」
「進くん」
伸ばされた大きな手が、僕の頬にそっと触れた。
ピッチャー特有の、硬く鍛え上げられた大きな掌。指先から伝わる体温が、皮膚を通してじわじわと体内に染み渡っていく。
息が止まった。目を逸らそうとしても、彼の深い青い瞳に捕らわれて動けない。
神童さんは目元を柔らかく緩めると、あごに添えていた指をゆっくりと僕の唇の上へと滑らせた。少しざらついた皮膚の感触が下唇を擦るたびに、背筋を甘い痺れが駆け抜ける。
「神童、さん……っ」
重なる影。息がかかる距離。
唇に触れたのは、はっきりと意図を持った熱だった。
「ん……っ」
思わず漏れた小さな吐息ごと神童さんの唇に塞がれる。
神童さんのキスは僕の緊張や戸惑いをひとつひとつ確かめ、優しく溶かしていくような丁寧さがあった。唇を食まれるたびに、頭の中が白く染まっていく。
神童さんの手が僕の腰へ回され、引き寄せられるようにしてさらに密着した。薄い生地越しに感じる強靭な体躯。圧倒的な存在感が、僕の全身を包み込んで離さない。
「ふ……あ、神童、さん……」
ようやく唇が離されたとき、僕の息は完全に乱れていた。目元には熱い涙が浮き、神童さんの胸元にすがるようにしてかろうじて立っている状態だった。
「僕の部屋に来てよかっただろう? スコアラーのデータを見るのは……もう少し後でもいいよね」
「あっ……意地、悪です……」
「そうかもしれないね。でも、君がそんな風に僕の服を強く握りしめているのを見ると、もう少し甘えさせてあげたくなってしまうんだ」
指摘されてハッと自分の手元を見る。僕は無意識のうちに、神童さんのシャツの胸元をシワができるほど強く握りしめていた。
「……神童、さん……っ」
軽々と抱き上げられた体感が途切れ、気がついた時にはソファの深いクッションへと背中が沈み込んでいた。
覆いかぶさってくる大きな影。長身の体躯が落とす質量は圧倒的で、僕の視界のすべてが神童さんの存在で塗りつぶされていく。
「怖がらなくていいよ。君を傷つけたりはしない」
神童さんは僕の耳元で囁くと、頬に添えた大きな手で優しく髪を撫で上げてくれた。掌の感触が肌を掠めるたび、ぞくぞくと甘い痺れが全身の神経を駆け抜けていく。
神童さんの腕は、僕が逃げ出さないように優しく包み込み、自発的に縋り付いてくるのを待っているかのようだった。
「神童さんは……ずるいです」
「そうかい? 僕は君に対して、いつだって素直でいようとしているだけだよ」
神童さんは静かに目を細め、僕の開いた指先の間に自身の大きな指を深く滑り込ませてきた。
しっかりと指を絡め合わされる。指先から伝わる熱が、じんじんと体内に染み渡っていく。僕の手は、一回り以上大きい神童さんの手にすっぽりと包み込まれてしまっていた。
「こうして君と手を繋いでいると、僕が投げる球を受け止めてくれる時の、あの完璧な配球とリードを思い出してしまうな」
「……グラウンドの上と、今は……違います……っ」
「そうかな? 僕にとってはどちらも『進くん』という大切なパートナーの姿だよ。……グラウンドでは僕を完璧に導いてくれる君が、こうして僕の腕の中で熱い息を吐いている。……その落差に、僕がどれほど庇護欲を掻き立てられているか、君は気づいていないんだろうね」
神童さんの低い声が胸に直接響き、心臓が跳ね上がる。
彼の手が僕のシャツの裾からそっと差し込まれた。硬い肉刺のある掌が腹部に触れ、そのままゆっくりと肋骨のあたりを撫で上げていく。
「あっ……ふ、あ……神童、さん……!」
身体が大きく跳ね、僕は思わず神童さんの肩に手を回して縋り付いた。
「声を出しても誰も聞いていないよ。ここは僕たちの場所だ」
神童さんは僕の耳たぶを優しく食み、喉元へと唇を滑らせていく。
首筋に感じられる温かな息遣いと、柔らかく皮膚を吸い寄せる感触。皮膚に残る甘い熱が、僕の中に渦巻いていた躊躇いを少しずつ溶かして消していくかのようだった。
(ああ……僕は、また……)
誰かの体温に依存して、甘えている。
神童さんの力になるために渡米したはずなのに、結局は神童さんの余裕と優しさに、自分から沈んでいこうとしているのだ。
自分自身の弱さに自己嫌悪が募る。けれど、その自己嫌悪すらも神童さんの触れ合いは許さなかった。
「また自分を責めている顔だね」
神童さんは逃げ場を塞ぐように僕の額と自身の額をぴたりと重ね合わせた。至近距離で見つめ合う青い瞳には、呆れるほどの包容力と、隠しきれない強い熱が宿っていた。
「神童……さん……」
「進くん。……僕を呼んでおくれ。他の誰でもない、僕の名前を」
促されるまま、僕は深く呼吸を吐き出し、彼の首元に腕を回して強く引き寄せた。
「神童……さん……っ」
名前を呼んだ瞬間、神童さんの息が深く詰まり、重ねられた唇が今度こそ深く、逃がさないように僕の口内を奪っていった。
「……本当にいいのかい?」
「ここまで来て……聞かないで下さい」
僕を抱き起こしながら問いかけてきた神童さんを、潤んだ瞳で睨みつける。神童さんはバツが悪そうに苦笑いをすると、改めて僕を正面から抱き締めた。
「悪いね、つい癖で聞いてしまうんだ。君の了承を得ずに進めてしまうのは、どうしても避けたくてね」
僕の耳元で、低く落ち着いた声が微かに震える。
神童さんの腕は力強く僕を抱き寄せており、耳に触れる息遣いはどこか切羽詰まっているようにも感じられた。
「僕は……大丈夫です。神童さんの、好きなようにしてください」
「僕の、好きに……?」
「あ……いえ、その……」
「……進くん」
神童さんの大きな手が、僕の腰を掴んでゆっくりと撫で下ろしていく。くすぐったさと甘い刺激が同時に駆け抜け、堪えきれずに神童さんの腕の中で身を捩らせた。
「ふっ……ん、ぁ……」
「君は本当に僕を煽るのが上手だね。そういうところも、たまらなく可愛いと思うよ」
神童さんは僕の髪を優しく撫で上げると、再び強く抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
神童さんの手が僕のシャツのボタンに触れ、一つずつ丁寧に外していく。外気に触れた肌がひんやりと粟立ち、思わず目の前の逞しい胸板に縋り付いた。
「神童、さん……」
神童さんの手が僕の頬を撫で、瞼にそっと唇が降ってくる。全身から伝わる温もりはどこまでも優しくて、毒のように僕の警戒心を溶かし尽くしていく。
「ずっとこうしているのもいいけれど……」
神童さんが僅かに身を起こし、僕の体をもう一度抱き起こす。視線を向ければ、青い瞳が穏やかな光を宿しながらこちらを見据えていた。
「……ベッドに行こうか」
静かに告げられた言葉に、鼓動が高鳴る。僕は小さく頷くことしかできなかった。
軽々と抱き上げられた体が、ふわりと柔らかなベッドへと沈み込む。
絡められた指先を強く握り返しながら、僕は神童さんが与えてくれる甘い毒のような温もりの中に、自ら深く沈んでいった。
逃げ道は最初から存在しない――僕自身が、もう逃げるつもりなど毛頭なかったのだから。
昨夜の濃密な熱気と、手の温もりがまだ皮膚の奥にこびりついているようだった。
球団施設に併設されたメイングラウンド。晴れ渡ったアメリカの青空の下、眩しい日差しがダイヤモンドを白く浮き上がらせている。芝生の匂いと、スパイクが土を噛む硬質で乾いた音が周囲に響いていた。
「Heyススム! 昨日の夜、シンドウの部屋で作戦会議だったんだろ? 顔色が少し赤いんじゃないかい?」
レフトの守備位置に向かうチームメイトが、すれ違いざまに口元を歪めてニヤリと笑う。
「相変わらず余計なお世話だよ」
僕が言い返すよりも早く、背後からかぶさるように低い声が響いた。
振り返ると、ベンチから出てきた神童さんがスポーツドリンクのボトルを片手にこちらへ歩いてくるところだった。眩しい日差しを浴びた褐色の髪と、鍛え上げられた体躯。その存在感だけで、周囲のざわめきが一瞬で静まるような錯覚を覚える。
「進くんをからかうのはそこまでにしておいてくれないか。午後のシートバッティングで、君の苦手な外角低めのフォークばかり投げることになりそうだ」
「オー、ジーザス! シンドウのその笑顔は本気だから勘弁してくれよ」
チームメイトは冗談めかして両手を上げると、そそくさとレフトの守備位置へと走っていった。
静かになったダイヤモンドで、神童さんは僕の隣まで歩み寄ると、柔らかな目元で僕を見下ろした。
「顔色が赤いと言われていたけれど、体調は大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です。少し、日差しが強いだけですから」
ごまかすように帽子を目深にかぶり直すと、神童さんは喉の奥でくすくすとおかしそうに笑った。
「そうかい? 僕のせいかと思って、少し責任を感じていたところだよ」
「神童さん……っ」
周囲に他の選手がいる手前、それ以上は言えず唇を噛みしめる。けれど、神童さんの青い瞳は、僕のうろたえも、昨夜の密やかな熱の残り香も、すべて愛おしむように見つめていた。
グラウンドにホイッスルが響き、午後の投球練習が始まる。
キャッチャーズボックスに屈み、プロテクター越しにグラウンドの硬い土を踏みしめる。重厚なミットを構えると、マウンドに立つ神童さんと視線が交差した。
白球が手元で小さく変化し、乾いた捕球音を響かせてミットに収まる。手に残る重みと痺れ。それは間違いなく、絶対的なエースである神童裕二郎の球だった。
(ああ……僕はもう、誰かの影を見ているんじゃない)
かつては兄さんの背中を追いかけ、その面影を神童さんに重ねることで自分の居場所を探していた。けれど、今僕の前に立っているのは、僕をひとりの捕手として、ひとりの人間として真摯に愛してくれる神童さんだ。
昨夜、あの温かな腕の中で解きほぐされたのは、僕の幼い罪悪感だったのかもしれない。
「ナイスボールです、神童さん!」
声を張ると、マウンドの神童さんが嬉しそうに口角を上げた。
夕暮れ時の球団施設――練習が終わり、二人で並んで駐車場へ向かう途中、茜色に染まる空の下で神童さんがふいに僕の手を引いて足を止めた。
「進くん」
「はい?」
「昨日のカフェでの話の続きなんだけどね」
神童さんは僕の返事を待たずに、大きな掌で僕の手を優しく包み込んだ。チームメイトやスタッフの目があるかもしれない場所だというのに、彼の動きには迷いがなかった。
「『Is he your boyfriend?』と聞かれたら、これからはどう答えようか」
「え……」
「僕はね、もう曖昧にごまかすのはやめようと思っているんだ。君が僕をただの先輩や投手としてではなく、ひとりの男として選んでくれたのなら」
まっすぐに見つめ返してくる青い瞳。そこには、かつて僕の逃げ道を塞ぐように包み込んでいた静かな情動だけでなく、純粋で誇り高い愛情が満ちていた。
胸の奥が熱く疼く。僕はもう、遠慮や躊躇いで視線を逸らすことはしなかった。
握り返された手にキュッと力を込める。硬い肉刺のある手が、僕の指先をしっかりと繋ぎ止めていた。
「……神童さんが困らないなら」
僕は深く息を吸い込み、夕空を見上げてから小さく微笑んだ。
「『YES』と答えてくださって構いません。僕も……これからはそう答えますから」
一瞬、神童さんは驚いたように目を丸くし、それから弾けたように優しく笑った。
引き寄せられた身体が神童さんの大きな胸に受け止められる。夕風が二人の間を吹き抜けていくけれど、重なる体温はどこまでも温かかった。

