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守進②

  • 2025年12月14日
  • 読了時間: 30分

更新日:2月8日

『オリックス 1位 猪狩進 捕手 あかつき大附属高校』

 秋が過ぎ去って季節が冬を迎えようとしている頃、ドラフト会議の結果は発表された。

 進は確かに逆指名をしていた――巨人ではなくオリックスを。

『猪狩進は兄の所属する巨人への入団を希望するだろう』

 それは僕だけでなく多くの野球関係者の予想だった。読売ジャイアンツの猪狩兄弟――いずれは僕と進のバッテリーで巨人が日本シリーズを制覇するのだと、多くの人々がそう考えていたはずだ。

 けれど、蓋を開けてみれば進はその予想を覆してオリックスを選んだのだった。

 この結果に驚いたのは当然ながら僕だけでなく、世間ではオリックスが金銭で進からの逆指名を得たのではないかとの噂が囁かれた。

 実際、逆指名という制度がそういった不正行為の温情となっていることは以前から指摘されていることだった。ドラフト外で選手と交渉し、どこの球団よりも金を払うからうちのチームを指名してくれと持ちかけるのである。僕自身もそのような交渉を持ちかけられたことはあった。

 だが、進がそんな理由で入団先を決めるはずがない。ほかに何か理由があるはずだ。

 しかし、どちらであれそれを確認する術は僕にはない。真相がわからない以上その疑惑が完全に払拭されることはないだろうし、進もそれは覚悟のうえだろう。

 会見でオリックスを選んだ理由について訊ねられた進は「憧れの神童選手とプレーしてみたいんです」と答えていた。

 それ以外の「猪狩進選手は巨人に入団するとの噂でしたが……」「兄の猪狩守選手は猪狩進選手のオリックス逆指名をご存知なのでしょうか?」といった質問に対しては、曖昧な返答をするばかりで多くを語ろうとはしなかったらしい。

 いずれにせよ僕にとっては納得がいかない結果であることには変わりなく、進に対して怒りや不満を感じたのも確かだった。

 進の何に対する不満なのか――巨人に入団しなかったこと? 僕に何も相談しなかったこと? それとも、もっと別の何か?

 正直なところ自分でもよくわからなかった。わからないことがまた苛立ちを増長させた。進に連絡を取って理由を聞こうとも考えたが、なぜか連絡を取る気が起きなった。


 ***


 翌年の一月、僕はプロ野球界へと足を踏み入れた。

『天才猪狩兄弟の兄弟バッテリー復活』――ドラフト前の世間からの期待の声は高く、僕たち兄弟が揃えば巨人の戦力は磐石になると言われていた。

 だけど、その期待は僕の耳には空虚に響くばかりだった。

 僕がドラフト会議でオリックスに入団することが決定すると、僕に向けられる眼差しは好奇の色に変わった。

 代わりに噂されるようになったのは、『オリックスは金を積んで猪狩進の逆指名を獲得したのではないか』『猪狩兄弟は実のところ不仲なのではないか』といった邪推だった。

 兄さんの付属品として機能しない僕に世間が向ける目なんてそんなものでしかない。それをまざまざと感じさせられた。

「猪狩くん」

 新人合同自主トレに励む僕に声をかけてきたのは、新人選手たちの様子を見に来ていた神童選手だった。テレビ越しに見ても体格のいい選手であることは把握できたが、こうして生身で接すると威圧感すら感じさせられる。

「君がオリックスに来てくれて嬉しいよ。母校にいいキャッチャーがいると以前から噂になっていてね。一度話してみたいと思っていたんだ」

「光栄です。神童選手と同じチームで野球ができるなんて夢みたいです。いろいろとご教授していただけると嬉しいです」

 社交辞令的な言葉を交わす僕に神童選手は目を細め、それからふっと表情を和らげた。

「気難しい子かと思っていたけど、なかなか愛嬌もあるじゃないか」 

「えっ……気難しい、ですか?」

「入団以来、自分から誰かと会話しようとしないし、取材陣の対応も最低限の言葉だけで済ませてしまう――そういうふうに見えたから」

「それは……」

『あの猪狩守の弟』『なぜ兄と同じ球団を希望しなかったのか』――他人が僕に話しかけてくると、いつも二言目にはそういった言葉が飛んでくる。それが煩わしくて、最低限の会話で済ませるようにしていたのは確かだった。

 ただ、他人から見て無愛想には見えないよう、普段の僕らしく振舞っているつもりでもあったのだ。だから、神童さんの言葉は予想外のものだった。

「……君自身が何かを発信しない限り噂は独り歩きしていくし、それが君自身を傷つけることも多いはずだ。だから、自分から周りに働きかけるべきだと思わないか?」

「えっ……?」

「別に、なにかを訴えろと言ってるんじゃない。いま僕が君と話してそう感じたように、君が愛嬌のある子だとわかれば自然と噂も風化していくと思うよ」

 神童さんはそれ以上何も言わず、僕の言葉を待ってくれた。真摯に向き合おうとしてくれる誠実な姿に胸を打たれると同時に、気を遣わせてしまったことに申し訳なさを感じずにはいられない。

「気をつけるようにはしているんですが、つい考え込んでしまって……すみません」

「謝らなくていい。ただのお節介だ。でも、困ったことがあれば相談に乗るよ。チームメイトなんだからね」 

 神童さんは軽くウインクしてから僕の背中を叩く。その力強さに思わず笑みが溢れてしまった。

「ありがとうございます……あの、よければ僕のことは猪狩ではなく進と呼んでください。そのほうが慣れているので」

「そうか。じゃあ、これからはそう呼ばせてもらおう。改めてよろしく、進くん」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 握手を交わした神童さんの手は大きくて力強かった。その感触に兄さんを思い出してしまって、慌ててその邪念を振り払おうとした。


 二月に入るとキャンプが始まり、オープン戦、シーズン開幕と、せわしなく日々が過ぎていった。

 初めてのオープン戦では緊張のあまり精彩を欠いたプレーが多く、監督から「もっと自信を持て」と注意を受ける始末だった。その後も際立った功績を立てることはなく、僕はしばらくのあいだ一軍での出場機会を得られずにいた。

『兄のほうは開幕一軍だったのにな』

 どこかから聞こえるそんな陰口がなおのこと僕を焦燥感に駆り立てる。

 兄さんはオープン戦を完封で収めたあと、開幕一軍を勝ち取ってそのまま先発ローテーションに定着した。プロの洗礼を浴びせようと躍起になっている選手たちを悠々といなし、『猪狩守の実力はプロでも通用する』ということを見せつけたのだ。

 僕のほうはどうだろうか。モニター越しに兄さんの活躍を見ている間、ひたすら惨めな気持ちに襲われるばかりだった。そして、その感情は日増しに膨らんでいった。

「随分落ち込んでいるようだね」

 一軍チームと二軍チームに別れての紅白戦のあと、ベンチで俯き加減に座り込んでいる僕に神童さんが声を掛けてくる。

 一軍と二軍で日程が異なるので僕と神童さんが会う機会は少ないけれど、それでも神童さんは何かと僕を気にかけてくれていた。

「……すみません。期待に応えなきゃと思うとなおのこと焦ってしまって。せっかく一位で指名していただけたのに」

「期待に応える、か.....」

 神童さんは悩ましげな様子で腕を組む。

 兄さんに追いつかなければ、せめて同じ土俵に立たねばと思うほど、僕の焦燥感は募っていく。

 それは『ドラフト一位』という期待に対する重圧よりも僕にとっては重い枷だったが、そんな気持ちから焦っているだなんて口にできるはずもなかった。

「そうだね……進くんは自分の能力を過小評価しすぎだと思う」

 神童さんは何かを考え込むようにしばらく沈黙したのたあとぽつりと呟いた。

「そうでしょうか?」

「自分の能力を信じられないというのは選手として致命的だと思うよ。もちろん、過信もいけないけどね。僕の目から見る限り、進くんの技術は一軍でも十分通用するレベルにあると思う」

「でも僕は……」

「焦るのはわかるけど、あまり気に病む必要はないさ。君は君なりに頑張ればいいんだよ」

 神童さんは僕の肩を軽く叩いて励ます。

 神童さんの気遣いはありがたいものの、それで何かが満たされるわけではない。僕の焦りはいっそう募っていくばかりだった。


 入団してから約半年が過ぎた頃、ようやく僕は一軍昇格を果たすことができた。

 とはいえ、それは正捕手のコンディション不良が原因であり、僕は控えの捕手としてベンチ入りしたに過ぎない。ここで活躍して一軍に定着しなければ――その一心で必死に練習に取り組んだ。

「もっと喜んでもいいんじゃないかい?」

 バットを振り続けていた僕が神童さんから声を掛けられたのは、ようやく汗が引いてひと息をついたというところだった。

「いえ、補填でベンチに入れてもらえただけです。このくらいで喜ぶことはできません」

「このくらいね……なら、君は何を目指しているんだい? MVP? 新人王?」

「それは……」

 神童さんに訊ねられてはたと気づく。――僕の目指すものってなんだろう? 僕はこれまで野球をしてきて、何を成し遂げたかったんだろう?

 どうにかして考えを巡らせようとしても、頭の中では兄さんのことばかりが浮かんでは消えず、けっきょく答えは出てこない。

 兄さんのへの反発心で野球を始めたわけじゃない。兄さんに対する劣等感からプロ野球選手を目指したわけでもない。

 僕の野球における目標――それは兄さんを隣で支えること。そうだとずっと思ってきたし、実際にそうなれるよう努力してきたはずだった。

 でも、本当はどうなんだろう?

 僕は何のために野球をしているんだろう?

 そんな疑問が僕の心に浮かぶようになったのはいつからだろうか。昔は野球をする理由なんて考える必要もないほど野球が好きでたまらなかったはずなのに。

 兄さんと一緒にキャッチボールするのが楽しくて野球を始めた。兄さんといちばん長くいられるポジションだから捕手を選んだ。兄さんの隣で、兄さんと同じユニフォームを着られることが嬉しくて誇らしかった。

 ……兄さんと共に野球ができることを純粋に喜べていたのはいつまでだったろう? 今となってはもう思い出せない。

「……進くん?」

 神童さんに肩を掴まれて意識を引き戻される。どうやら呼びかけに気づけないほど考え込んでいたらしい。

「すみません。練習で疲れたのかぼーっとしてしまって」

「いや、それならいいんだが……君の表情があまりにも思い詰めたものだったから、少し心配になったんだ」

 神童さんは少し屈んで、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていただけですから」

「そうか……いろいろ悩む時期ではあると思うけど、あまり根を詰めすぎるのは良くないよ」

 神童さんは僕の頭を優しく撫でてから、「また明日」と言って練習場から出て行った。

 子供あつかいされているとは感じたものの不思議とそれは不快ではなく、兄さんの掌の感触を思い出させる感触に胸の奥が微かに温まる気がした。

 兄さんのことで悩んでいたというのに、兄さんのことを考えると心が安らぐ。この相反する感情は一体何なんだろう? そんなことを考えながら僕は一人残って練習を続けた。


 ***


 何かの間違いだ――ドラフト会議の結果を受けて思わず口にしたその言葉が、いまでもときおり喉を突いて出そうになる。

 ずっと手の中に収まっていた存在が、自分の手をすり抜けて遠くへと飛び去ってしまった――進のオリックス逆指名は僕にとってそのような出来事だった。

『兄さん! 打撃フォームを見てほしいんです』

 記憶の中で進が楽しそうに笑い声をあげる。

 幼いころの進は僕によく懐いていたし、兄さん兄さんと呼びながら僕のあとをついて回るものだから、僕も進の面倒を見るのが楽しくて仕方がなかった。

 進はいつも僕の後をついて回っていた。僕のあとを必死についてくる姿が可愛らしくて、進の期待に応えたくて、いつしか僕は進の前では強くいなければと思うようになっていた。

『兄さん。僕ね、兄さんみたいな選手になりたいんだ』

 無邪気な笑顔で進はよくそう言っていたものだった。進の期待に応えたいと思ったし、兄として進を守らなければと思った。

 進に慕われるため、進に失望されないようにするために学校の成績もトップクラスを維持したし、野球でも常にエースとして活躍できるように努力を重ねてきた。

 それは猪狩財閥の御曹司としての義務のようなものでもあったが、進という存在がいたからこそそれを重圧と受け止めることもなく、目標という形で捉えることができたのだろうと思う。

 進は僕にとって自慢の弟だ。そして、おそらくは進にとっても僕は自慢の兄なのだろう。

 進に頼られることも、進に尊敬されることも、進と一緒に野球をするのも楽しかったし、心地良かった。

 進が傍にいることが当たり前で、その当たり前が変わることなんて想像もしていなかった。

『兄さん!』 

 最後に進の笑顔を見たのはいつだっただろう。プロ入りして以降、進が僕に向けて笑いかけてくれたことはあっただろうか? それ以前に、進と最後に言葉を交したのはいつだったろう?

 進が何を考えているのかわからない。いや、最初から進のことをわかっていたことなどなかったのかもしれない。いつからか、進は僕から遠い存在になっていた。


「猪狩の弟、最近オリックスのレギュラーに定着してるみたいだな」

 チームメイトの一人がそんな言葉を口にする。

 彼が手にしている野球雑誌には神童選手とバッテリーを組んでいる進の写真が掲載されていた。

『オリックス・期待の高卒ドラ1猪狩進が攻守で躍動。タイムリーツーベースで神童を援護』

 そんな見出しと共に、試合中の進の写真が数枚掲載されていた。

 プロ野球選手として着実に功績を上げている進の姿は喜ばしいもののはずだった。しかし、どういうわけか僕は素直に喜べずにいる。そればかりか苛立ちすら感じていた。

『進が一軍レギュラーだって? どうせすぐ二軍に落とされるのが関の山だな』

 小波と矢部から進が一軍レギュラーに定着したと聞かされたとき、僕の口から出たのはそんな言葉だった。

 小波と矢部はあかつき大附属高校からの同期だった。当然ながら彼らも進のことはよく知っており、進を卑下する僕に対して『弟だからってそんな言い方はないだろ!』『そうでやんす! 進くんは優秀な選手でやんすよ!』と憤慨していた。

 進が優秀な捕手であることは僕が誰よりも知っている。リトルリーグの頃から進とバッテリーを組んでいたのはこの僕なのだから。

 進は僕と組んでいるときがいちばん輝いているんだ。進の実力をいちばん引き出せるのは僕なんだ。進は僕がいて初めて一人前なんだ。

 いつしかそんな傲慢な思考が僕の頭を占めるようになっていた。

『神童は猪狩のリード力を高く評価しており、次世代のオリックスを背負う捕手になると太鼓判を押している』

 記事の内容を読みながら、胸の奥にモヤがかかったような不快感を覚えて眉間に皺が寄る。

 まるで進のことを理解しているとでも言わんばかりの物言いだ。神童選手は進の何を知っているというのだろう? 僕のほうがずっと進のことをよくわかっている。

 進の性格も、進の野球センスも、進の趣味や好みも――すべて僕のほうが理解できている。僕がいちばん進の実力を引き出すことができる。それなのに、なぜ進は僕から離れていってしまったのだろう。

(……何かの間違いだ)

 いつかの言葉がふたたび脳裏を過ぎる。

 何が間違いなのだろう。進がオリックスを選んだことなのか。進がプロ野球界で活躍していることなのか。進が自分以外の投手と組んでいることなのか。自分でも何に憤りを感じているのかわからなかった。


 選手寮に帰って一人になった途端に深い溜息が漏れた。頭痛がする。胃がキリキリと痛む。胸に鈍痛が走る。どうにも気分が悪くて、倒れるようにして布団に横たわった。

『兄さん、僕ね……』

 記憶の中の進の声が脳裏に蘇る。その声音はかつてと同じく甘やかな響きを持っていて、まるで学生の頃に戻ったような錯覚すら覚えた。 

 だけど、それは幻想でしかない。進はここにはいない。僕がどれだけ望もうと進はもう別の道に進んでしまった。

「……くそっ!」

 苛立ち紛れに枕を殴りつけると布団の上で小さく跳ねて壁にぶつかって止まった。その小さな音でさえ癪に障って歯噛みする。  

 進は僕がいなくても平気でやっている――その事実が僕をさらに苛立たせた。

 進が一軍レギュラーを掴んでいることは僕にとっても祝福すべきことのはずだった。そのはずなのに、こんなにも腹立たしいのはどうしてなのか。

 その問いの答えが出ぬまま僕は布団に包まって眠りについた。


 ***


 小気味よい音を立てて神童さんの投げた球が僕の構えたミットに吸い込まれる。

 その鮮やかな軌跡を目で追いながら僕は確信した。この人こそが僕の求めていた人なのだと。

 神童さんの投球は兄さんに似ている。いや――おそらくは兄さんが神童さんを模倣しているのだろう。神童さんは兄さんにとっても憧れの投手だったから。

「神童さん、ナイスボールです!」

「ありがとう。進くんも上手く合わせてくれて助かったよ」

 神童さんは穏やかに微笑むと汗を拭うためにタオルを取る。整った顔立ちは精悍さを帯びていて、それでいて柔らかな印象を与えた。 

 この人は、僕がずっと求めていた人だ。

 神童さんと打撃練習をして、神童さんの投げる球を打ち返せるようになれば、兄さんの球だってきっと打てるようになるはずだ。それに――

 僕は周囲を見回して一軍の練習場にいる選手たちに視線を向ける。

 いまのオリックスの戦力であればリーグ優勝だって狙えるだろう。そして、日本シリーズで巨人と対峙したそのときが『猪狩守の弟』という枷から解放されるチャンスだった。

 兄さんを超えることでしか僕は『猪狩進』になれない。兄さんに勝って初めて僕は『猪狩進』という一人の選手として歩き出すことができる。

 そのために――僕は神童さんを利用すると決めた。

「進くん?」

「あっ、いえ……なんでもありません」

 神童さんに声をかけられて我に帰ると慌てて首を振る。神童さんは一瞬不思議そうな表情を浮かべたもののすぐに柔らかな笑みを浮かべた。 

「あの、このあとのフリーバッティング、僕と組んでもらえませんか?」

「ああ、構わないよ」

 神童さんは笑顔で頷いてくれた。

 この人の投げる球を僕は必ず打つ。そして、兄さんに勝ってみせる――そう強く決意しながら僕はバッターボックスに向かった。


「ストレートお願いします!」

 打席に入ってグリップを握り、マウンドに立つ神童さんを見据える。

 兄さんを超える。『猪狩進』になる。そのためならなんだってしてみせる。そんな思いを胸に抱きながら僕はバットを構えた。 

「行くよ」

 神童さんはそう言うと大きく振りかぶって剛速球を放った。空気を切り裂く鋭い音を立てながら白球が一直線にこちらに向かってきて――僕の手元で僅かに内側へと逸れた。

 バットを振り抜くと、少し詰まった打撃音と共に打球は右中間へと伸びていく。やがてそれは二塁と右翼の間に落下してライト前ヒットとなった。

「ナイスバッティング!」

 神童さんがマウンドから声をかけてくる。

「うまく打つものだね。高校野球じゃあ、まだこれを使う投手は少ないだろう?」

「ええ。僕にとっては神童さんが初めてです」

 神童さんから感嘆の混じった声が届く。

 神童さんの曲がる速球――メジャーリーグではツーシームと呼ばれているらしい――は、直球に近い急速でありながら打者の手元で利き腕方向に小さく曲がる。

 そうやって芯を外してゴロで打ち取り、球数を減らしてアウトカウントを増やすのが神童さんの投球だった。これは三振狙いを好む兄さんとの大きな違いだろう。

「でも、僕はストレートをお願いしましたよ」

「ごめんごめん。つい君を試したくなってね」

 神童さんは苦笑すると続けて投げてくれた。今度は宣言通りの直球で、左腕から放たれた速球が外角を目掛けて鋭く伸びてくる。 

 神童さんの直球は兄さんの直球より球速がわずかに早い。この直球を確実に捉えられるようになれば、兄さんの球も打てるようになるはずだ。

 バットを長く持ってフルスイングをする。少し振り遅れたがそれでも力強い打球がレフト方向と飛んでいき、やがてフェンスに当たって跳ね返った。 


 僕は、ずっと兄さんが羨ましかった。誰からも尊敬されて、天才と謳われて、僕はいつもその背中に追いつこうと必死になっていた。

 捕手を志したのは、兄さんの隣で、兄さんと同じ景色を見ていたかったからだ。

 だけど、どんなに努力しても、どんなに頑張っても、僕はいつだって兄さんの影でしかなかった。

 兄さんに勝ったら僕は――僕は……『猪狩進』になれるんだろうか?


「次、カーブお願いします! 」

 それからも神童さんは僕との打撃練習を続けてくれた。兄さんと似た投球をする神童さんのおかげで、僕は兄さんとの対決に向けた調整を順調に進めることができていた。

「進くんは本当に器用だね。どんな場面でも最善の判断ができるし、周りに合わせて臨機応変に対処できる。投手として素晴らしいパートナーだと思うよ」

 神童さんがいつもの人好きのする笑顔を浮かべる。

 兄さんを超えるために、僕は神童さんを利用すると決めた。神童さんを踏み台にして、僕は『猪狩進』になる――

 そう決めたはずなのに、どうしてだろう。神童さんの投球に触れるたび、神童さんのことを知れば知るほど、胸の内が罪悪感でいっぱいになった。

 こんなに優しい人を僕は騙している。神童さんは僕なんかとは違って綺麗で、眩しくて――とても遠い存在のように思えた。 

「神童さん……すみません」

 思わず謝罪の言葉が漏れる。

「突然どうしたんだい? 君が謝るようなことは何もしていないと思うけど」

「いえ……その、いつも僕の我が儘に付き合ってもらっているので……」

 僕の言葉に神童さんは可笑しそうに笑う。

「進くんは真面目だね。僕は楽しんでやっているんだよ。君とバッテリーを組めることが嬉しくて仕方がないんだ」

「楽しい……?」

「そうだよ。僕がどんな球を投げても君は完璧に捕ってくれるからね。遠慮も気遣いもなく全力で投げられるのは気持ちが良いものだ。君がオリックスに入ってくれて本当によかったと思う」

 神童さんの言葉に僕は胸が熱くなるのを感じた。神童さんは僕を兄さんの弟ではなく、『猪狩進』という捕手として見てくれている。そのことが嬉しかった。

「ありがとうございます。僕も……神童さんと一緒にプレーできて嬉しいです」

 それは僕の本心だった。

 だけど、同時にそのことが辛くてたまらなかった。

 神童さんは僕を『猪狩進』として見てくれているのに、僕はまだ神童さんを通して兄さんを見ている。

 僕は僕を通して兄さんを見ている人達と何も変わらない。神童さんの真摯さが、まるで鏡のように僕の醜さを映し出していた。


 ***


「おい、猪狩! なんだよ今日のプレーは!」

 試合を終え、ロッカールームに戻った僕を待ち構えていたのは小波からの叱責だった。

 あかつき大附属高校からのチームメイトであり、同期に入団した選手でもある小波はもはや腐れ縁とも呼べる間柄だった。

 小波の実力は僕には遠く及ばないが、こいつはそれでも僕と競い合うことを絶対にやめようとしないのだ。小波は本当に鬱陶しくて騒がしくて――そして、眩しいくらい野球バカだった。

「今日の投球は散々だったじゃないか。失投の連続でフォアボールが四つ、挙句にはワイルドピッチでノーアウト二、三塁の大ピンチになった回もあったろ。オレと矢部くんの華麗な守備で点には繋がらなかったからよかったけどさ……」

 小波は呆れ顔で僕を窘める。

 普段ならば多少の冗談を交えつつ流しておくところだが、今日はなぜか小波の態度が妙に鼻についた。

「まあ、進くんならあの暴投も捕れたのかもしれないけど……いまはそうじゃないんだからさ、あんまりキャッチャーに甘えるなよ」

 甘える、という言葉に思わず眉間に皺が寄る。まるで僕が進に甘えていたかのような言い草だ。

「……今日はたまたま調子が悪かっただけだ。天才のボクにだってそういうことはあるんだよ」

「いや、絶対に違うだろ! お前、ここ数試合ずっとこんな感じじゃないか」

「君には関係のないことだろう」

「あるさ! 野球はチームプレイなんだからな! ……こんなわかりきったことを言わせるなんて、お前、最近おかしいぞ!」

 遠慮のない小波の言葉が更に苛立ちを募らせた。

 僕は小さくため息をついて小波の顔を睨み付ける。

「余計なお世話だ」

「……ッ! お前な……!」

 小波は一瞬言葉に詰まってから僕に掴みかかってきた。それを予期していた僕は反射的に腕を振り払う。 

 そのまま胸ぐらを掴み返してやろうとしたが、僕らの間に割って入った矢部に阻止されてしまった。 

「二人とも落ち着くでやんす!」

 矢部は僕らの間に入ると、両手を広げて諌めるように言った。

「大事な時期にチームの雰囲気を悪くしちゃだめでやんすよ」

「……そうだな。矢部くんの言う通りだ。悪かったよ」

 小波は僕と距離を置くように一歩後ろに下がる。

 矢部は安堵した様子で僕らの顔を交互に見ると、仲裁のために上げていた手をそっと下ろした。

「……どうせ進くんのことなんだろ? この前の試合でオリックスがリーグ優勝を決めたからな。進くんとは日本シリーズで対戦することになる」

 小波は腕を組んで神妙な面持ちになる。

 矢部は首を傾げてからポンと手を打った。 

「なるほど、やっぱり進くんのことでやんすか。弟に嫌われたのを気にして落ち込むなんて、猪狩くんも案外可愛いところがあるでやんすね~」

「……」

 揶揄するような口調の矢部に睨みを効かせる。矢部は「ヒィィィッ!」と情けない悲鳴を上げて縮こまった。そんな光景に小波はやれやれと首を横に振る。

「ふん。オリックスとの日本シリーズが決まったからなんだと言うんだ? 進なんかがそんな重要な試合に起用されるはずがないだろう」

「……お前なあ。まだそんなこと言ってるのか?」

 小波は呆れた様子で腕を組んだ。それからひとつ溜息をつき、神妙な面持ちで口を開く。

「なあ、覚えてるか? オレ達が高校二年で進くんが一年のとき、三年生対一、二年生の合同チームで紅白戦をやっただろ。そのときはお前がピッチャーで進くんがキャッチャーだった。試合は同点のまま九回裏になって、進くんのパスボールがきっかけでオレ達のチームは負けた」

 小波の言葉に僕はいつかの練習試合を思い出す。

 あのとき進が捕逸をしたのは確かだったが、僕も九回まで登板していたため疲労していたのだ。そのせいで進が指示した位置から投球が逸れてしまい、結果的にそれが捕逸へと繋がった。だからあれは進だけのミスではなかったのだ。

 だが、ボクがミスをするわけがないと思い込んでいる周囲の人々は進ばかりを責める。だから僕は進を貶されることへの怒りと、そんな状況を招いてしまった自分に対する苛立ちでつい声を荒らげてしまったのだった。

「いや、あれはボクの投球にも問題が……」

「ほら、あのときもそうやってお前は進くんを庇っただろ。『キャッチャーが一年じゃなきゃ負けなかったかもしれないのにな』って悪口を言う先輩に向かって『進を悪く言うやつはボクが許さない』って啖呵切って誰よりも怒ってた。なのに、お前が進くんを貶してどうするんだよ」

 小波の指摘に僕は息を飲んだ。

 進を悪く言うやつは僕が許さない。それは僕の本心から出た言葉のはずだった。なのに、どうしてだろう――いまの僕は進を認めることができないでいる。

「いい加減に認めろよ。進くんはもう立派なプロ野球選手だ。お前だって進くんの活躍は聞いてるだろ? いつまでもお前に依存している小さ子供のままじゃないんだよ」

 小波は矢継ぎ早に言葉を続けた。

 進と神童選手のバッテリーはいまや「黄金バッテリー」と呼ばれている。進は確実に日本シリーズでもスタメン起用されるだろうし、僕が先発として登板すれば対決することになるだろう。

 ――それが進の望んでいたことなのだろうか?

 そうなのかもしれないとは思うものの、そこから先を考えようとすると思考に霞がかかったみたいに何もわからなくなってしまう。

 僕は進と対決することを拒んでいる。それはなぜなのだろう。進に打たれるのが怖いのか? 進の所属するチームに負けるのが嫌なのか? いや、おそらくは――「進がそれを望んでいること」自体を受け入れたくないのだ。

「……あいつは本当はボクと一緒の球団に入りたかったはずなんだ。きっと何かやむをえない理由があるはずなんだ。ボクとの対決なんて本当は望んでいないんだよ」

 進は昔から寂しがり屋で甘えん坊だった。「兄さん」と声を弾ませながら僕の後を必死に追いかけてきて、いつも僕の隣にいた。僕はそんな進をずっと守ってきた。僕だけが進を守ってやれるんだ。僕が進のことをいちばんよくわかっているんだ。僕だけが――

「いい加減にしろよ! お前、本当に進くんのことが大切なのかよ!」

 小波は怒りの籠もった目で僕を射抜く。 

「……何が言いたい?」

「自分の思い通りになって、いつも自分の隣にいて、自分がいないと何もできない……そういう状態を望むことをお前は『守る』ってことと勘違いしているんじゃないのか? 進くんはお前のペットじゃないんだよ。お前がいつまでも縛り付けてちゃダメなんだ。進くんの人生は進くんのもので、進くんには進くんなりの考えがあって――」

「うるさいッ! お前に進のなにがわかるんだ! 進は……!」

 そこまで言ってはたと気づく。 

 そうだ。僕は進のことを何も知らない。進が何を考えているのか、進が何をしたいのか、進がどんな夢を持っているのか――僕は何ひとつとして知らない。

 オリックスへの入団だってそうだ。僕は進に『どの球団に入りたいか』なんて訊いたことがなかった。進は僕と同じ球団を選ぶのが当然だと思っていたからだ。

「ボクは……」

 愕然とした。自分がしてきたことが間違いだったのではないかという疑念が脳裏を過ぎる。 

 進にとって大切なのは本当に僕だったのだろうか。本当に僕の側にいることが進の幸せだったのだろうか。僕は今まで進の何を見ていたのだろう。

「……すまない」

 ぽつりと零すと、小波は眉を下げて困ったように笑う。

「いや、こっちこそ怒鳴って悪かったな。進くんが大切ならちゃんと向き合ってやれよ」

 小波は肩を叩いてそう言った後、「じゃあな」と告げて去っていく。残された矢部は困った様子で僕の様子をうかがっていたが、しばらくしてから小波の後に続いた。

 僕はその場で立ち尽くす。

 僕は、進が僕から離れていくのが怖かった。進が自分で考えて行動するのは当然のことなのに、僕はそれが堪らなく恐ろしくて不安だった。

 だから無意識のうちに進を束縛しようとしていた。進に拒絶されるのが怖くて、逃げ出したくて、進が僕を必要としているということにしてきたのだ。

『兄さん』

 進の声が脳裏を過る。

 幼い日の進は僕の後を追いかけながら純粋な瞳で僕を見つめていた。あの頃の僕は無邪気に弟からの愛情を受け取って、それが当然だと思っていた。

 けれど、本当は違ったのだ。あの頃も今も、進はずっと自分の意思を持ち、自分の足で歩いていた。僕はそれを無意識に否定していたのだ。

「僕は……」

 僕は何をやっているんだろう。

 僕は進にとってどんな存在でいたかったのだろうか。

 僕は自分のことしか考えられなくて、進を尊重しようとしなかった。僕が進を想う気持ちはあまりにも幼稚で、恥ずかしいくらい独りよがりなものだった。 

 ―――僕は進に何をしてやれるのだろう。

 進と話さなければならない。僕が進のことを何も知らないのなら、改めて話をして進のことを知るべきだ。


 ***


 巨人との日本シリーズを控えたチームメイト達は高揚した様子で各々準備に勤しんでいた。

 シーズン中のローテーション通りであれば、五戦目には兄さんが登板してくるはずだが――それまでにどちらかのチームが四勝して日本一が決定すれば兄さんの登板はないだろう。

「今日はここまでにしよう。これから日本シリーズだ。練習のしすぎで体を壊したら本末転倒だよ」

「いえ、まだお願いします!」

 練習を切り上げようとする神童さんの提案を突っぱねて、僕は再び打撃練習に入ろうとした。

 僕はまだまだ上を目指さなければいけない。兄さんを超えて、僕は初めて僕になれる。

「進くん。今日はもう終わりだ」

「まだやれます。やらせてください!」

「駄目だ。これ以上やったらオーバーワークになってしまう。次の試合に影響が出たらどうするんだい?」

「ですが……!」

 僕がなおも食い下がると、神童さんは宥めるように僕の肩に手を置いた。

「……進くん、君は何をそんなに焦っているんだ? 君はこれからまだまだ伸びる選手なんだ。もっと長い目で見て、自分のペースで成長していけばいいんじゃないか?」

「それは……」

 神童さんの言葉に答えられないでいると、神童さんは優しく微笑みながら話を続ける。

「僕はね、君の野球を楽しみにしているんだよ。だからこそ、こんなところで潰れて欲しくないんだ。君を眺めていると、君がそのうち自分自身に押し潰されてしまうような気がしてならない」

「でも……僕は……」

「君はドラフト会議のときも険しい顔をしていたし、一軍に昇格したときもあまり嬉しそうには見えなかった。ずっと何かに急き立てられているようで……楽しそうに野球をしているようには見えないんだ」 

 神童さんの指摘に僕は俯く。

 リトルリーグの頃は野球が楽しくて仕方がなかった。兄さんと一緒にプレーできることが嬉しくて、兄さんとひとつになれた気がしていた。 

 だけど、年月が経過するにつれて僕は兄さんをまっすぐに見られなくなっていった。兄さんへの憧れと劣等感が入り混じった感情が、僕の中でどんどん膨れ上がっていった。 

 兄さんとの野球は確かに僕に楽しさと充足感を与えてくれたけれど――それが僕を縛る鎖でもあったように思う。

「……兄さんは昔からすごい人でした。誰よりも華々しいプレーをして、どんなピンチだって切り抜けてみせる。だからみんな兄さんを尊敬して憧れました。僕もその一人です」

「君のお兄さん……猪狩守くんのことだね」

 僕がゆっくりと話し始めると、神童さんはそれに耳を傾ける。

「昔は兄さんと同じ舞台でプレーするのが夢でした。兄さんと同じユニフォームを着て同じグラウンドで野球をする。それが僕の目標だったと思います」

「なら、なぜオリックスに? 僕に憧れて……というのは嘘なんだろう?」

「……気づいていたんですね」

「まあね。君は僕と練習しながらも、いつも僕ではない誰かを見ているような気がしてならなかったから」

 神童さんは察していたのかもしれない。この人は他者の機微に敏感で、誰よりもよく人を見ている。そんな彼だからこそ、僕の欺瞞をどこかで感じ取っていたのかもしれない。

「僕は兄さんに嫉妬していました。兄さんはいつも僕より先に行ってしまって、僕はいつも追いかけるばかりで……でも、決して追い付けなくて、ずっと……ずっと悔しかったんです」

 それは僕がいままで口にしたことのなかった気持ちの片鱗だった。それを口にしてしまえば呆れられそうで、見放されてしまいそうで怖かった。だけど、神童さんであれば大丈夫だと思えた。

「兄さんに勝って、僕は初めて僕になれるんです。今まで誰も僕自身を見てくれませんでした。みんな僕の中に兄さんを見ていました。僕は『猪狩守の弟』という色眼鏡でしか見てもらえなかったんです。僕は兄さんを超えることでしか僕になることができない……」

 そこまで言い終えてから神童さんの反応を待つ。

 神童さんはしばらく考え込むように黙り込み、数秒経ったのちに改めて口を開いた。

「確かに、人は誰かを基準にして他人を評価するものだ。君のお兄さんに対する周囲の期待や評価が高いのは理解できるし、それと君を比較してしまうのも仕方がないことだろう」

 神童さんは一旦そこで言葉を区切ると視線を落とす。

「だけど、君は君だ。誰かの代わりなんかじゃない。少なくとも僕はそう思うよ。君と知り合ってまだ日が浅いけど、君とバッテリーを組んでいるからこそよくわかる。進くんは素晴らしい選手だよ。技術は申し分ないし、常に冷静で状況判断も的確だ。チームメイトへの配慮も欠かさないし、周囲の人々からも信頼されている。僕は進くんと出会えて本当によかったと思っているよ。だからこそ……君が苦しんでいる姿を見るのは辛いんだ」 

 神童さんはそう言って僕の両肩に手を添えた。  

 神童さんの言葉を噛み締めると、涙が溢れ出して止まらなくなった。神童さんに対して感謝や罪悪感が混ざり合い、形容しがたい感情が胸中で渦を巻く。

「すまない、差し出がましいことを言ったね」

「いえ、違うんです。違うんです……神童さんは僕のことをちゃんと見てくれているのに、僕はずっと神童さんを兄の代わりにしていました。神童さんを利用して、そのくせ都合よく神童さんに甘えていました。兄の代替品にされるのを嫌がっていたのは僕自身なのに……僕は兄さんと神童さんを重ねてばかりでした。本当に……ごめんなさい」

 震える声で語り続けると、神童さんは僕の涙を拭いながら微笑んだ。

「確かに君は君のお兄さんに勝つことで自分の価値を見出すことができるのかもしれない。だけど、それで得られるのは一時的な満足感に過ぎないんじゃないかな?  誰かと比べて上に立とうとするのではなく、自分の目標に向かって努力することが大切なんじゃないかと思うよ」

 神童さんは優しく諭すように言葉を紡いでいく。

「……わからないんです。自分がどうすればいいのか、僕が本当に望んでいるものが何なのか……でも、兄を倒したらその先に何かが見えるんじゃないかと思うんです。兄に勝って、その結果で僕自身を見つめ直すことができれば……そうすれば――」

 そこまで言って言葉を途切れさせると、神童さんは僕の頭にぽんと手を置いた。神童さんの掌から温もりが伝わってきて、その体温にふたたび涙が溢れそうになる。 

「焦ることはないよ。自分の答えを見つけ出すのは簡単なことじゃない。だけど……答えが出なくても、その過程で得られるものはきっとあるはずだよ。僕たちは日本一を目指す。でも、それは最終目的じゃない。そこからまた新たな目標を見つけて挑戦していくんだ」

「……はい」

 神童さんの言葉に僕は小さく頷いた。

 神童さんの優しさが胸に沁み渡る。この人の温かい心に触れるたびに、自分の心に抱えていた暗雲が少しずつ晴れていくような気がした。

 僕は、僕が何をすべきなのかわからない。まだ答えを見つけられずにいる。でも、それでもいいのかもしれない。

 今はとりあえず前に進んでみよう。その先に答えがあるのかはわからないけれど、まずは一歩を踏み出すことから始めよう。

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