守進③【完】
- 2月7日
- 読了時間: 23分
更新日:7 日前
その日は久しぶりに進の夢を見た。
夢の中でいつもそうしていたように、進の体を抱き寄せようと腕を伸ばす。しかし、その指先は虚空を切るばかりで進の姿を掴むことはできなかった。
目の前で進の姿が徐々に薄くなっていくのを見ながら僕は必死に呼びかけたが、進の唇が僕の名を呼ぶことはなく、儚く微笑んだまま僕の元から離れていった。
「進……」
目を醒ますと冷たい汗で全身が濡れていた。
荒い呼吸を繰り返しながら上半身を起こす。心臓が早鐘のように鳴っていて、耳鳴りが酷かった。額に滲んだ脂汗が頬を伝って流れ落ちる。
視線を向けると、ベッドの上に置いてあるデジタル時計が午前三時を示していた。
もう一度眠る気には到底なれず、ベッドを抜け出した僕は選手寮の一角にある自販機コーナーへと向かう。
自動販売機のボタンを押すとガコンと音を立てて缶ジュースが落ちてくる。それを拾い上げてベンチに腰掛けたあと、プルタブを開けて一口含んだ。
「進……」
無意識のうちに唇から言葉が零れる。
進のためならどんなことだってできると思っていた。進のためなら例え自分を犠牲にしても構わないと思っていた。けれど、実際にはそんなことはなかった。僕自身が進を傷つけていたのだから。
「進……」
もう一度、進の名を呼ぶ。
進の幸せを願っている。心からそう思っている。
だけどもし叶うのであれば、ずっと自分の腕の中に閉じ込めていたかった。
だからこそ、僕は進に兄と弟という枠組みを超えた関係を求めたのかもしれない。兄のままではいつか進を手放さなければならないとわかっていたから。
「馬鹿だな……僕は……」
自嘲気味に呟いた声が虚しく響く。
僕の言動は矛盾していて、醜悪で最低な自己満足にすぎなかった。
小波の言う通りだ。進には進の人生がある。それは進だけのものであって僕のものじゃない。だからこそ僕はこの手を離さなければならない。僕の代わりにその手を握る誰かに託さなければならないのだ。
――進の背中が見える。
僕の腕の中を離れて走っていくその姿は凛とした強さを帯びていて、眩しいほどに美しく見えた。それは僕の放つ光を反射したものではない。進自身が放つ輝きだった。
進に必要なのは、対等な一人の人間だったのだろう。それは、いま進の隣にいる神童選手なのかもしれない。
僕には彼のように進に寄り添い、対等な関係を築くことはできなかった。僕は進を支配したいと思っていたし、僕の元に留めておきたかった。
「進……」
進の名を呼ぶたびに胸の痛みは増すばかりだった。
この想いは呪いだ。この感情は一生消えない。それでも進の未来を願うならば、僕はこの想いに蓋をして封印するべきなのかもしれない。
進が選んだ道を応援しよう。進が選んだ相手を祝福しよう。例えその隣に僕が居なくても――
***
『さて始まりました日本シリーズ第六戦! オリックスブルーウェーブ対読売ジャイアンツの一戦をここ東京ドームよりお送り致します! 後攻・巨人の先発は左の猪狩! 対するオリックスの先発は左の神童となっています! さあ、間もなく試合開始です!』
実況アナウンサーの声がスタジアムに響く。
巨人は兄さんの登板を六戦目にずらし、DH制が適用されないホーム球場で投げさせることにしたようだ。兄さんの打者としての実力を鑑みれば想定内の采配と言えるだろう。
観客席の歓声に包まれながら僕は静かに息を吐いた。
マウンドに立つ兄さんの姿を見ると心臓が痛いくらいに脈打つ。鼓膜を叩く拍手と歓声がひどく遠くに感じられ、自分の血液が流れる音がやけに耳障りだった。
「進くん」
ふと肩に手を置かれ、顔を上げるとそこには神童さんの姿があった。神童さんは穏やかな表情で微笑んでおり、その柔らかな笑顔に不思議と気持ちが落ち着くのを感じる。
「大丈夫。いつも通りにやればいいんだ。君ならできるよ」
「神童さん……」
僕はその手に自分の手を重ねた。
神童さんの手は大きくて温かかった。その体温に触れると安心する。まるで包み込まれるように心が温まっていく。
「ありがとうございます。僕は大丈夫です」
僕はそう答えて微笑んだ。
兄さんの投球はリトルリーグ時代から数え切れないほど見てきた。兄さんの癖も、兄さんの球の特性もすべて熟知している。
だから、必ず勝てる――そう自分に言い聞かせた。
「僕も守くんと投げ合うのは初めてだな。なんだか楽しみになってきたよ」
神童さんは楽しげに口角を上げる。その声色から緊張は感じられず、寧ろ期待に胸を膨らませているようにすら感じられた。
「そうですね。僕も……全力で行きます」
「ああ、頼んだよ」
僕らはお互いに頷き合って定位置につく。
一回表、オリックスの攻撃が始まった。
『さあ、まずは一番・田口の打席から試合が始まります。リーグ優勝の立役者に猪狩守はどういった投球を見せるのか!』
兄さんは左腕を大きく振りかぶり豪快に投球する。
初球はインハイの直球。兄さんは警戒しているのか、ストライクゾーンを通さずコーナーぎりぎりへと投じてきた。田口さんはバットを出さず、審判がボールを宣言する。
『猪狩投手、初球は外してきましたね』
『まずはお互いに様子見といったところでしょうか』
解説陣の会話が流れる中、兄さんは次の球を投げ込んだ。二球目は真ん中低めへと沈むフォークだった。田口さんはタイミングを外されて空振り。カウントはワンストライクワンボールとなる。
『猪狩守、ここは得意のフォークで揺さぶります! さあ、三球目はどのように攻めるのか!』
次に投じられたのはアウトコースいっぱいに決まるスライダーだった。田口さんは振り遅れ気味になりながらもなんとかバットに当てたが、打球はぼてぼてのピッチャーゴロとなってしまった。
『猪狩守、スライダーで打ち取りました!』
実況と解説が声を荒げる。
スタジアムに響き渡る歓声の中、兄さんは何事もなかったかのように無表情のままグラブを叩く。
続く二番の大島選手はショートゴロで打ち取られ、三番の谷選手はライトフライに倒れた。そうして、一回表オリックスの攻撃は三者凡退で終了したのだった。
『さあ、一回表をノーヒットで抑えた猪狩守、マウンドでの第一声は喜びよりも安堵といった感じでしょうか。表情には緊張の色が見えますね』
解説陣が兄さんに言及する中、スタジアム全体は熱を帯びてきていた。観客たちは興奮に胸を躍らせ、試合展開に釘付けになっているようだった。
その熱狂とは対照的に僕の心臓は驚くほど冷え切っていた。指先が細かく震え、目が霞むような感覚すら覚える。緊張からなのか、恐怖からなのか――その判別はつかないけれど、胸のあたりが締め付けられるような苦しさすら覚える。
僕の胸の内には様々な感情が渦巻いていた。兄さんに対する畏敬の念、ライバルとしての競争心、兄弟としての情愛。それらが複雑に絡み合い、僕の中で激しく暴れているような気がした。
「進くん、大丈夫かい?」
隣にいた神童さんが心配そうに声をかけてくる。僕は小さく深呼吸をしてから口を開いた。
「はい、問題ありません」
僕は努めて平静を装う。それでも声が震えてしまっていることが自分でもわかった。
兄さんへの憧れと劣等感――それはいつしか僕の中で歪んだ形となって肥大化し、僕を苛ませ続けていた。
兄さんは確かに僕に愛情を注いでくれたが、それは自分で御せる相手に対するものだった。兄さんは僕を庇護することで何かを満たしていて、僕が自分の意思で行動することを拒んでいるいる節があった。
だけど、僕はもう兄さんの陰に隠れているだけの弟ではない。僕は兄さんを超えたい。僕は兄さんに勝ちたい。そして――兄さんと肩を並べて歩みたい。
神童さんは僕の背を軽く叩いて微笑むと、「頼りにしているよ」と言ってマウンドに向かう。その背中を見送りながら、僕もマスクを被って守備位置についた。
キャッチャーズボックスの上で片膝をつく。僕の視線の先にはマウンドに立つ神童さんの姿があった。
神童さんの表情はどこまでも落ち着いていて、堂々とした佇まいからはこれから迎え撃つ相手への敬意と期待が見て取れる。その姿を眺めていると、こちらまで勇気づけられるようだった。
――大丈夫、僕は負けない。『オリックスの猪狩進』として、恥ずかしくないプレーをしてみせる。そう何度も自分に言い聞かせた。
***
オリックスの選手たちに声をかけている進の姿は、以前より幾分か大人びたように見えた。キャプテンとして野球部を率いていた頃の進も、こんな風に振舞っていたのだろうか。
進の姿を眺めながら、僕は喉の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。僕の知っている進とは違う、どこか凛々しい進の姿。
僕が知っている進の姿はいつだって僕の弟で後輩だった。だが、僕のいないところではキャプテンであったし、いまは一人のプロ野球選手として生きている。
――僕の知らない進がいる。
当たり前だ。進には進の人生があり、進には進の交友関係がある。僕だってそうなのだ。僕と進は別の個体なのだから、それぞれの世界があって然るべきなのだ。
僕はそんな当たり前のことをずっと失念していた。
兄として、投手として、僕は猪狩進という選手に敬意を払い、本気でぶつかるべきだろう。どんな形であれ、僕は進との勝負を受け止めなければならない。
『さあ、三回表オリックスの攻撃。先頭バッターはキャッチャーの猪狩進! 名門あかつき大附属高校の兄弟バッテリーがプロの世界で初めての対決となりました! これは注目の勝負になりそうです!』
実況アナウンサーがマイクに向かって叫ぶ。
打席に向かう進の姿にスタジアムの客たちは俄かにざわつき始めた。双方の観客席から「守ー!」「進ー!」と声援が飛び交う。
プロ入り二年目となる進は開幕からレギュラー入りを果たし、今シーズンは打率三割を記録している。オリックス打線の中ではイチロー選手に次ぐ打率だ。イチロー選手がメジャーに移籍した暁には、彼に代わってオリックスを牽引する打者となるのだろう。
『すぐ二軍に落とされるのが関の山だな』
『よっぽど捕手がいないんじゃないのか?』
いつかの自分の言葉を思い出して僕は苦笑する。
僕は本気で進が「そう」であると思っていたわけではない。だが、「そう」であってほしかったのだろう。
もし本当に進がすぐに二軍に落ちて、「兄とバッテリーを組んでいない猪狩進はそんなものだ」という評価を受けていたとしたら――僕はそれで満足だったのだろうか?
……満足だったのかもしれない。「やっぱり僕には兄さんがいないとだめですね」と、泣きついてほしかったのかもしれない。きっと進はそんな僕の傲慢さを見抜いていたのだ。
進は表情を変えず静かにバッターボックスに入る。
僕は大きく深呼吸をした。進が打席に立った瞬間から全身の血が沸騰するような感覚を覚える。肌が粟立つほどの緊張と興奮が、体中を侵食するように駆け巡った。
マウンドに立つ僕を見つめる進の瞳は鋭く研ぎ澄まされていて、そこに宿る闘志の炎はとても眩しく見える。その瞳を見ていると、昂る感情を抑えきれなくなる自分がいた。
エースナンバーを託された者として、進だろうが誰であろうが僕は打たれるわけにはいかない。
だが――進に打ってほしいという気持ちもあった。
矛盾しているようだが、僕は心の底からそう思ったのだ。
それは、弟に勝ちを譲りたいなどという驕りからではない。僕の球を打てる数少ない存在の一人が、他の誰でもない進であったならどれだけ誇らしいことか――そう、思ったのだ。
僕は進に、このマウンドから引きずり降ろされたい。
しかし、僕もまたプライドを賭けてマウンドに立っている。例え相手が進であろうと容赦はしない。
ならば、全身全霊でぶつかり合うのみだ。その結果としてどちらかが勝者となったのであれば、どう転んだとしても悔いは残らないだろう。
『ここまでの試合では神童とのバッテリーで素晴らしいリードを見せている猪狩進。入団二年目の今シーズンは打率.308、51打点と、堅実な打撃でリーグ優勝に貢献しました。今日は果たしてどんな打撃を見せてくれるのか! さあ、注目の勝負です!』
アナウンサーが熱のこもった実況で盛り立てる。
僕は一度帽子の庇を掴んで前髪を掻き上げた。乾いた土を踏み締め、しっかりと地に根を張るように重心を安定させる。
(進……)
僕の頭の中では幼い日の進が笑顔で僕を呼んでいた。幼い頃の記憶はおぼろげで曖昧なものなのに、進の顔だけは不思議と鮮明に覚えている。
進はいつも僕の後ろにいた。進は僕がどこに行ってもついてきたし、僕が何をしても真似したがった。あの頃は、ただ単に可愛くて仕方がなかった。進は僕にとって特別な存在で、かけがえのない宝物だった。
――いつからだろう。進に執着するようになったのは。進を自分の所有物のように扱うようになったのは。進を手放したくないと願うようになったのは。
『さあ猪狩守、振りかぶった!』
大きく振りかぶって全身の筋肉を鞭のようにしならせる。そして、肘を畳んで腕をしならせ、体重を乗せて力強く踏み込んだ。
掌から離れた白球は唸りをあげて加速していく。
瞬間、進の瞳が僅かに見開かれるのがわかった。驚いているのだろう。それもそうだ。僕はこの日のために隠し球を用意していたのだから。僕の球を知り尽くしている進を倒すための、強化されたストレートである。
進は咄嗟にバットを引き、ボールを避けるようにして体を引く。球はストライクゾーンをぎりぎり外し、審判からボールコールが出された。
『猪狩守、初球はストレート! 内角低めへの難しいコースでしたが、猪狩進は手を出しません!』
実況アナウンサーの声が響く。
僕は大きく息を吐き出して呼吸を整えた。額を滑る汗を拭い、再びバットを構える進の姿を見据える。
進は冷静に思考を巡らせているようだった。さっきまでの驚きに満ちた表情はすでに消えており、今は真剣な眼差しで僕を見据えている。
僕は再び脚を引き上げて、振りかぶって腕を振り下ろす。体の捻りを使い、溜め込んだ力を一気に解放するようにして投げ込んだ。
二球目はインハイへのストレート。進はタイミングを合わせてバットを振ったものの、バットはボールを捉えることなく空を切る。
『二球目は空振り! さすがは猪狩守と言うべきでしょうか、得意のストレートで強気に攻めています!』
解説者が興奮した様子で続ける。
実況は相変わらず盛り上がっているが、僕にとってはそれがどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
マウンドの上には僕と進しかいない。二人だけの空間で、世界はただ静かに廻っていた。
進の眼差しには迷いなど微塵も感じられなかった。あるのは闘争心に満ちた強い意志だけだ。進の視線を浴びているだけで、背筋がゾクゾクして堪らない気持ちになる。
僕は緩やかに投球動作に入り、全身の筋肉を最大限に使ったフォームでストレートを放つ。
三球目はアウトローのギリギリへ。進はそれを読んでいたのかタイミングよくバットを振り抜く。快音が響き渡り、白球は一直線にレフト方向へと飛んでいく。
打球がミートされた瞬間、僕は思わず唇の端を吊り上げていた。進はわずか二球で僕の球を見抜き、食らいついてきたのだ。
打球はファールラインを僅かに割って外野へと転がっていく。それを見た観客たちが大きな歓声をあげた。
『惜しい! これはファールとなりました!』
実況が興奮気味に叫ぶ。
スタジアム中に響くような大歓声の中、僕はマウンド上で深く息を吸い込んだ。胸いっぱいに新鮮な空気を取り込み、血液を巡らせて集中力を高めていく。
『猪狩守、ツーストライクと追い込んでいます! 果たして次の一球で勝負が決まるのか!?』
四球目、進はアウトローへのスライダーに手を出した。左打者の進にとって、左投げの僕が投げるスライダーは軌道が見えにくく捌きづらい変化球だ。
進はバットを寝かせてカットするように打ち返す。ボールは三塁線を切れるファールとなり、カウントは変わらずツーストライクワンボールとなった。
『おっと、またもやファール! 猪狩進、粘ります!』
アナウンサーの声が遠くの方で聞こえる。だが、僕の意識は完全に進に集中していた。
(進、楽しいな)
心の中で呟くと自然と口元が綻ぶ。
この勝負を終わらせたくない。もう少し長くこの時間を続けたい。進と共に同じ時を共有していたい。その一心で僕は左腕を振りかぶった。
五球目は外角低めへのフォーク。進は逆方向へ引っ張るようにしてバットを振り抜く。ボールは地面を穿ち、勢いよく跳ね上がった。
進の打球は三塁線上を真っすぐ伸びていき、ファールゾーンで失速して力なく転がる。進のフルスイングを凌いだこと胸を撫で下ろしつつ、僕は次の一球に備えて精神を集中させた。
『猪狩守、ファールで粘る猪狩進にどう対処するのか!』
六球目は外角高めへのストレート。進はそれを見極めるとバットを出し、レフト方向へ弾き返した。だが打球はまたもやファールラインを割ってしまい、スタンドのファンたちがどよめいた。
『またもやストレート! 猪狩進、ファールで逃げました!』
『猪狩進選手、さすがですね。よく食らいついています』
『はい、猪狩守選手の球威あるストレートに難なくついてきています。ストレートを見極めて、変化球への対応も見事です。さあ、対する猪狩守選手、次はどのような球種で勝負に出るのでしょうか!』
七球目、僕が選択した球種はカーブだった。外角低めへと落ちる球に進はなんとか喰らいつこうとするが、タイミングを外したらしくボールはミットへと収まった。
『これはストライク! 猪狩進、粘りましたが最後は三振に倒れました!』
解説者の声が遠くに聞こえる。
僕は帽子のつばを軽く持ち上げて汗を拭い、呼吸を整えながら進の姿を見据えた。
進はバットを下ろし、僕に向けて一礼をしてから打席を退く。それがひどく他人行儀に見えて、僕は少し寂しくなった。
僕と進は互いに成長したのだ。かつて僕の後ろをついてきていた小さな少年は、今や立派なプロ野球選手として僕の目の前に立っている。
進はもう子供ではないし、僕もまた進の保護者ではない。僕らの関係は変わりつつある。いや、変えなければならないのだ。
僕は拳を握りしめて息を吐く。進との対決を終えてもなお、胸の高鳴りは治まらなかった。
***
ダッグアウトに戻った僕は、チームメイト達の声を受けつつユニフォームの袖で額の汗を拭った。その間も、心臓は激しく脈打ち続けている。
兄さんの投球は素晴らしかった。僕の知る兄さんよりも遥かに速く、鋭い剛速球。球質、回転、どれをとっても非の打ち所がない。数年前とはまるで別人のような速球を操る兄さんは、やはり凄い投手だと改めて感じた。
しかし――兄さんはその球を僕の打席まで隠していた。これまでの登板では投げていない。恐らく、僕を相手にすることを意識して温存していたのだろう。
兄さんの直球を受けた瞬間、僕の背筋にぞくぞくとした何かが走った。それは怯えからくるものではない。あれはそう、いわゆる武者震いというやつなのだろう。
――兄さんは本気で僕を打ち取ろうとしている。僕はそれが嬉しくてたまらなかった。兄さんと戦うことのできる喜びが、全身を駆け巡っていた。
「やはり守くんは凄い投手だね。正直驚いたよ」
背後から声がかけられる。振り返ると打席を終えた神童さんが穏やかな表情で立っていた。
けっきょくこの回のオリックスの攻撃は三者凡退に終わり、依然として試合は膠着状態のままだった。
「はい。僕も兄さんがあんなに凄い球を投げてくるとは思いませんでした」
僕が素直にそう告げると、神童さんは苦笑しながら頷いた。
「でも、進くんはあの球を捉えかけていただろう? 次の打席ではヒットにしてみせるといい。君ならできるよ」
「ええ、そのつもりです。次こそは必ず打ちます」
神童さんの言葉に僕は力強く答える。
もちろん僕もこの一打席で終わるつもりなんてさらさらない。僕は必ず兄さんの球を打ってみせる。兄さんをマウンドから引き摺り下ろしてみせる。
「さあ、切り替えていこう。僕らの仕事はここからだよ」
神童さんは帽子を被り直してマウンドへと向かう。僕もそれに倣うようにしてポジションについた。
兄さんは僕の憧れで誇りだった。兄さんのようになりたくて、兄さんと同じものを見たくて、ずっと兄さんを追いかけてきた。
でも、今は違う。僕はオリックス・ブルーウェーブの一員だ。オリックスのために野球をすることを自ら望んだんだ。
僕はもう兄さんの背中は追わない。兄さんの足跡をなぞるのではなく、自分で新しい道を作る。僕は『兄さんを追いかけるために野球をすること』をやめるんだ。
『――藤井ホームイン! 猪狩進、タイムリーツーベースです! これで試合は振り出しに戻りました!』
五番打者の藤井選手が三塁ベースを回ってホームへと帰還する。巨人の優勢で進んでいた試合は九回表で振り出しへと戻り、観客席からは歓声と落胆の声が湧き上がった。
『さすがは昨年ドラフト一位指名の猪狩進! 試合を振り出しに戻す価値ある一打で、オリックスブルーウェーブ、同点に追いつきました!』
実況アナウンサーが興奮気味に実況する。
その後も試合が動くことはなく延長戦十二回裏を終え、日本シリーズの結末は七戦目へと持ち越されることになった。
『猪狩兄弟の兄弟対決に注目が集まった本試合。両選手共に本領を発揮してくれたのではないでしょうか!』
『守選手は十奪三振と圧巻のピッチングを見せてくれましたし、進選手は同点タイムリーとチャンスで仕事を果たしました。いずれも素晴らしいプレーを見せてくれましたね』
『結果的には両者勝ち越し点を与えず引き分けましたが、日本シリーズ七戦目に向け期待の持てる内容だったと言えるでしょう! これからの展開に目が離せません!』
アナウンサーと解説者のそんな言葉を背に受けながら僕はグラウンドを後にした。通路を抜け、廊下を歩き、選手出入り口の扉を開ける。すると目の前には兄さんの姿があった。
「……兄さん」
驚いて足を止めると、兄さんは少し困ったような表情をして右手で髪を掻いた。
「進」
「……どうしてここに?」
「話がしたくて待っていたんだ」
兄さんは落ち着いた声音でそう告げる。
僕が黙っていると、兄さんは僕の目をじっと見つめて口を開いた。
「……今日のプレーすばらしかったよ。さすがはボクの弟だな」
兄さんは誇らしげに微笑み、僕の頭にぽんと手を乗せる。
「はい……ありがとうございます」
「まあ、お前が相手チームにいるのはかなり厄介だがな」
「ええ、困ってください」
僕がそう答えると兄さんは肩を竦めて苦笑した。久しぶりに見る兄さんの笑顔は相変わらず優しくて、僕の胸を温かくさせる。
「ボクはこれからもお前の兄であり続ける。困ったらボクに相談してくれていいし、頼ってくれていい。だが――相手チームとしてボクの前に立ち塞がる以上、ボクも全力でお前を打ち取るつもりでいく。それが正しい選択だと……思っている」
「はい」
兄さんの言葉に僕は小さく頷く。
兄さんは僕の頭から手を離すと、今度は僕の背に腕を回した。兄さんの体に包まれるような形となり、僕は抵抗することなく身を委ねる。
「……すまなかった、進」
兄さんは掠れた声で囁いた。
「謝らないで下さい」
僕がそう言うと、兄さんはそっと体を離して僕の顔を覗き込む。
「次の試合、勝たせてもらうからな」
「ふふっ、兄さんは出場しないでしょう?」
「代打で出るかもしれないぞ」
「それは怖いですね。ですが、こっちだってそう簡単に負けませんよ。ホームベースは僕が守ってますからね」
「――ああ、楽しみにしてる」
そう言って微笑むと、兄さんは僕の髪をくしゃくしゃと撫でる。子供を褒めるように、慈しむように。その指先の感触がくすぐったくて僕は思わず笑ってしまう。
「進」
「何ですか?」
「頑張れよ」
兄さんは優しい声で言い、改めて僕を抱き締めた。
兄さんの声が耳元に響くたびに、胸の奥が疼いた。兄さんの腕の中は温かくて優しい匂いがする。心地よくて離れたくなくなってしまう。
でも、今はまだそのときではない。だからこそ、僕は兄さんの体をそっと押し返した。
「兄さんも」
僕が微笑むと、兄さんもまた微笑んで頷いた。
兄さんの笑顔は昔と変わらなかった。ずっと僕の憧れで、尊敬する人だった。
兄さんという存在が、僕を野球に導いた。兄さんの後をついて、僕はここまでやって来た。
だけど、もう囚われはしない。兄さんの影に隠れて生きていくような僕はもういない。僕はこれから自分の足で歩いて行くんだ。兄さんの背中を追いかけるのではなく、僕自身の夢を掴むために。
***
(……頑張れよ、か)
進に向けた言葉を反芻しながら、僕は自分の掌を見つめていた。
どうしてこんな簡単な言葉をいままで伝えることができなかったのだろう。いや、思うことすらしなかったのか。
僕は進の選んだ道を肯定したくなかった。僕と異なる道を選んだ進の判断を否定したかった。僕と同じものを見て、感じて、分かち合ってほしかった。
『すぐ二軍に落とされるのが関の山だな』
『よっぽど捕手がいないんじゃないのか?』
僕が進にかけた言葉を思い出す度に忸怩たる気持ちになる。進がプロとして活躍していることを素直に喜ぶべきだったのに、僕は何故あんなにも否定したがったのだろう。
自分の掌を握り締めてみる。そこには固く鍛えられた肉刺の感触があった。幾度となく潰れては再生を繰り返してきた肉刺は、僕の努力の証でもあった。きっとそれは進だって同じことなのだ。
進の実力を認めていないわけではなかった。ただ、僕と一緒の道を歩んでくれないことに腹を立てていたのだ。
……本当に子供じみた考え方だった。僕は、僕のいない世界で生きる進を許せなかったのだ。
(……すまなかった)
心の中で呟いて僕は目を閉じた。
僕は進に甘えていたのかもしれない。進なら僕について来てくれると信じ込んでいたし、その理由について深く考えることすらしなかった。
だが、進はもう僕に手を引かれている子供ではないのだ。
「――進」
進の顔を思い出しながら、僕はそっと指先を握り締めた。
この手でボールを投げて、進のミットに収める――それができなくなったのは悲しいが、この手で進の背中を押すことはできる。
進が自分の道を行くならば、僕もまた自分の道を往こう。そしてまた日本シリーズで会える時まで、互いに切磋琢磨していこうと思うのだ。
それでもいつか――またバッテリーとして肩を並べることができたなら嬉しいと思う。
『それでは次のニュースです。なんと、レッドエンジェルスの神童裕二郎選手が完全試合を達成しました! オリックス時代も完全試合を達成している神童選手、レギュラーリーグでもその実力を遺憾なく発揮しています! 相棒の猪狩進選手も七回裏のタイムリーヒットで神童選手の勝利を後押し! 黄金バッテリーの活躍に現地のファン達の興奮も最高潮に達しています!』
ニュースキャスターの声が控え室のテレビから流れる。それを聞きながら僕はテーブルの上に置かれたコーヒーに手を伸ばした。
テレビの映像はアメリカからの中継に替わり、現地のアナウンサーが興奮気味に解説をしている。マイクを向けられた神童選手は相変わらずの柔和な笑みを浮かべ、謙虚な態度でインタビューに答えていた。
『猪狩進選手のリードのおかげです。彼の配球と観察眼には本当に助けられていますから』
画面越しの進と神童選手が目配せをしながら笑っている。神童選手の横に立つ進は嬉しそうに目尻を下げていて、それはとても仲睦まじい光景のように見えた。
神童選手を追いかけて海を渡った甲斐はあったのだろう。渡米する前の進が見せていた憂いは既に見えず、充実した日々を過ごしていることがうかがえる。
あの年の日本シリーズ以降、僕と進はそれぞれの道を歩んできた。僕は巨人でエースとして数々のタイトルを獲得し、進は神童選手を追う形でレギュラーリーグへと進出した。
小柄さ故に進のレギュラーリーグでの活躍は厳しいと予想されていたが、いまでは相変わらずの的確なリードでレッドエンジェルスの勝利に貢献している。
画面の中では、神童選手に寄り添う進が照れくさそうにはにかんでいた。
進の笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと暖かくなるような心地になる。それは幼い頃の進に僕が向けていたような、単純で純粋な想いだった。
「おい、猪狩。なに朝からにやけてるんだよ?」
突然背後から声をかけられて振り返ると、そこには小波と矢部がいた。なんだかんだ一軍に定着している彼らとは相も変わらずの腐れ縁だ。
「弟が世界で活躍しているんだ。嬉しいに決まっているだろう」
「へーえ?」
僕の言葉に小波はニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべる。その笑みの意図するところが理解できてしまい、僕は思わず顔をしかめた。
「なんだその顔は?」
「別に~? 猪狩もずいぶん丸くなったなぁと思っただけだよ」
「やっと兄貴らしくなったって感じでやんす」
「お前ら……」
僕が呆れてため息をつくと、小波と矢部は悪戯っぽく笑った。まったく調子のいい奴らだと思うが、悪い気はしない。
進が僕を必要としなくなったとしても、僕にとって進は可愛い弟だ。僕は進の兄として、これからも進の幸せを祈り続けたいと思う。
進は、進の望む道を歩んでいる。それだけで十分だ。
きっと遠くない未来で、僕たち兄弟はまた対峙するのだろう。今度は日本代表とアメリカ代表として。
その時に「兄さんの弟でよかった」と心から思ってもらえるように、僕は自分を磨き続けよう。進に後ろ指を指されることがないように。進にとって誇れる兄でいられるように。